「法的な人権侵害の批判は、裁判で勝つまで無効である」などという考え方をこの大学は採用しなかったということだ。
さて、彼の意見に対して、僕の考えはこうだ。
人権侵害は、裁判をやろうがやるまいが、人権侵害である。裁判で勝つことによって初めて人権侵害となるわけではない。
法律の実際の運用上はそうして後付けで認定されるものであるとしても、人権侵害という問題意識は、法におけるそれと同じものとして、社会生活において最低限共有されるべき公共倫理である(これは、個々の法律の中に問題のあるものもあり、それは批判出来る、という話とは別に、法というものの原則だ)。
従って、法的な人権侵害と、法の外の人権侵害を分ける視点に意味を感じない。それはひとつの問題を解決する過程の、異なるフェーズを見ているに過ぎない。
そして、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と憲法11条にもあるとおり、人間全てに固有で、不可侵で、普遍的な権利として与えられているものであり、ダブスタの差別表現者の卑怯者だから認められない、というようなものではないし、相手が合意しないと行使できないというようなものでもないのだ。
(ところで、彼らが主張するところの僕のダブスタ(二重基準)のほとんどは、
ここでSIVAPROD氏がやっているのと同じ錯誤に過ぎないと思うのだが、hokusyu氏から合意を引き出すのに集中していたため、あまり詳細には読んでない。そういう錯誤ではない反論がなにかあるならまた別に教えて欲しい。反論するので)
その上で、実際に裁判を起こすまでもない問題を対話/社会的な合意で解決しようという試みはあってしかるべきだろう。
これは法という共通基盤の確かさを前提にしたその上で諮られるべき解決策だ。法に優先するものではない。
そのことについて加害者の合意が取れようが取れまいが、もし人権侵害であるのなら人権侵害と批判されていいのだ、もちろん。
(もちろん、加害者とされた側にも反論する自由はあるだろうが)。
その上で言うが、裁判に掛かっていない批判に残念ながら強制力はない。
僕がhit-and-run氏にした批判は「道義的批判」にとどまる。彼に受け入れてもらうためには、合意が必要だ、というところは、これは正しい。
(ただ、結局突っぱねられたのだとしても、そこに至るまでに彼らがどんなことを言っていたかで、彼らの人権感覚が浮き彫りになったとは思う)
この大学だって、彼らを合意なく処刑したわけではない。それではリンチになってしまう。
調べてはいないが、常識的に考えてこの大学には学則があり、その学則には、人権を侵害するような行為をしたものには処分が下る旨、何か記載があるだろう。学生はそこに合意の上で入学しているだろうし、嫌なら退学する自由も保障されているはずだ。