2010年6月24日
こちらに反応
基本的に、拠って立つ美学が僕と大野さんではまったく違う。
そして、15年なり20年なりその道につぎ込んだ経緯がある人間が、ちょっとやそっと議論したくらいで自分の価値観を譲ったり曲げたりすることはないだろう。
だから、そういう意味では、完全に平行線になるのは当たり前であり、仕方がない。
「芸術」という語の社会通念とか慣用とかに話を振られたら、キワモノ作家でしかない僕に勝ち目はない。そもそも最初からそんな民主主義的多数決(笑)な議論など僕はしてはいないのだ。
しかし、互いが互いの個人的な思想を主張していたら絶対に交わらないのが見えてるわけで、僕が一切譲らない以上あちらが路線を曲げてくるのは仕方ないわけで、これは僕がかたくななのが悪いとも言える。
申し訳ないが、僕は政治的に正しくあるために自分の中の美を曲げるつもりはない。議論において負荷を一方的に相手に押しつけてしまった点については、謝ろうと思う。
例の作品が芸術であるか否か、という点について大野さんと議論をする気はもうない。
これはその議論から派生したいろいろな話題の、落ち穂拾いだ。
大野さんの意見のほとんどを、大野さんはそう考えるのだろうと僕は納得しているが、いくつか意見を挟みたいところがある。
私の基本的態度は「これをアートとして語る意味はない」。高橋氏の態度は「アートの俎上に上げてその質を論じよ」。
簡潔に今回の互いの主張をまとめてもらっている。異存はない。
「これをアートとして語る意味はない」と大野さんが考えていることは分かった。
「アートの俎上に上げてその質を論じ」ることに意味があると考えているのは僕であって大野さんではない。そして、意味があるかどうかとは関わりなく、それは論じることが可能だし、論じてもよいし、僕は論じる、というのが僕の意見だ。
どんなアート作品よりも世界にインパクトを与えた01.09.11テロを芸術として論じればいい。
映像美としてならなんの問題もなく論じることが可能で、枚挙にいとまなくその例はある。
芸術としてあのテロを論じることが困難なのは、美的に設計している作者が(おそらくは)いないからだ。ビン=ラディン達が、あのビルにこの角度から突っ込めば美しい/インパクトが高い、という意図のもとに計画を立てたのであれば、これは芸術作品と呼びうるだろうが、そういう話は今のところ聞いたことがない。
あの崩壊するビルの与える強烈なインパクト(ある種の美)は偶然なのであり、単に辞書的な定義から外れるという意味で、芸術とは呼びがたい。よくは知らないのだが、wikipediaで読む限り、トマソン的なものではありうるのかな?
そして、当たり前のことながら、あのテロが芸術であろうがなかろうがそれは犯罪であり、むしろ芸術的な意図でやっていたのならより酷いと考える人さえいるだろう。それと、あの映像が強烈な印象を人々に与え、おそらくこの先の映画、漫画、アニメ等にも影響するだろうということは、単に別の話で、そちらが芸術の問題だ。
そういうものをアートの俎上に乗せ批評する「覚悟」もなしに、「すべての表現作品はアート」「倫理的問題と芸術的価値は別」などと軽々しく言うべきではない。
なんの覚悟が必要だというのだろう。これで僕の命が狙われでもするのだろうか。
次に、(どちらかというとこちらが本題)ブクマに反応。
chochonmage 殺人して死体で見事な料理を作る。で,殺人したことと料理人としての評価は別だと.そらそうだ.で、行為も含めて料理・料理人として評価「も」してやれと。それは事件が伝説になって、百年位後にすべきじゃないけ?
このブクマは、とてもいいところを突いていたのだと思う。僕と大野さんがどちらも星を付けていて、その付けている部位が違うのだ。
僕は「殺人したことと料理人としての評価は別だと.そらそうだ」、大野さんは「それは事件が伝説になって、百年位後にすべきじゃないけ?」の部分に星を付けている。
この二つの論点は別なのだ。一緒に論じるからおかしくなったのだ。
yuhka-uno 個人的には、あれがアートか否かの議論には全く興味が無い。アートであろうがなかろうが暴力は暴力。アートは暴力を不問にする理由にはならない。
対立点を誤解している典型的な例で、途中で何度も強調したにも関わらず誤解する人は増えるばかりで終わってしまった。いずれよく読まずに批判する人が絶えることはないのだろうし、徒労感はあるが、もう一度書いておく。
>あれがアートか否かの議論には全く興味が無い
だったら対立点はない。とっくに議論は終わっているはずなのだが。
>アートであろうがなかろうが暴力は暴力。アートは暴力を不問にする理由にはならない。
当たり前で、僕はそれを否定したことなど一度もない。
NOV1975 エロゲに被害者はいないがアレには被害者がいるので自由を主張する要件を失っていると思うんだよなあ。
議論が長くなっちゃったんで、全体が読まれてなくても仕方ないのかなあとは思うけど。
名誉毀損か侮辱か肖像権か、いずれにしろ何らかの人権侵害である可能性が極めて高いのは、作った当人でさえ認めているし、僕も否定したことがない。そして、直接具体的な人権侵害をもたらしている場合、表現の自由が制約される可能性があるのも当たり前。僕はそれを否定したことなど一度もない。
実際僕は何度も、これは訴えられたら負けるだろう、議論の余地はないだろう、と書いたはずだ。誤解している人がいるようなので補足するが、訴えられなければいいと言ってるわけではない。人権侵害は訴えられなくても人権侵害だ。ただ、誰もが人権侵害を指摘しているものに、改めてそれ以上議論の必要があるとは思えない、と言っているだけだ。
amamako氏は疑問を呈しているが、僕はこれは大学に抗議のひとつも飛んで当たり前だと思うし、彼らが大学から何らかの処分を受けても、おかしいとは思わない。それと電凸云々が業務妨害等になりうるという問題は別のはずで、そういう具体的な迷惑行為があったら、それをそれ自体として批判するなり罰すればいいだけだ。
SIVAPROD 相変わらず「選ばれしものの恍惚と不安」ごっこだな。キモオタ罵るのも俺がアートつったらアートなんだよ!
恍惚も不安もない、ただ議論を論理的に切り分けているだけに過ぎないが。そもそも、キモオタを罵るアートなんていくらでもありうるし、ファインアートは知らないが、大衆アートにならいくらでもある(この事件のように、具体的被害者を出しているものは少ないだろうが)。それをアートと論じてなんの問題もないぞ。
noman29 アート論は共感できないけど、倫理と芸術は別ではないという所は同意。あれが芸術として完成品であるとしたらもう被害者女性を救う道は無い。
この作品がアートであろうがあるまいが、被害者女性を救う方法に変わりはない。
三島由紀夫の「宴のあと」という小説はプライバシー権侵害で被害者に損害賠償を支払っている。文豪三島の作品でさえ、人権侵害は人権侵害としてきっちり裁かれるのだ。こんな学生の習作レベルのものがアートだとして、人権侵害に関わる裁判の行方に影響するはずはない。
ごく一部の例外を除いて、法律はアートだからといって犯罪や人権侵害を大目に見るような仕組みにはなっていない(その一部の例外というのがわいせつ関連の罪で、それが僕には腹立たしいのだが)。それを除けば、アートに不逮捕特権はない。アートとして扱うことが彼らへの法的・社会的な擁護になるという考え方は間違っていると僕は考える。
Pokopon コンセプチュアルだからアートなんてわけじゃないし、アートだったとしてどうなの。何か高橋君の「アート」コンプレックスが話をややこしくしてるだけじゃないの。
アートだったとしてどうなの、という話をしたがっているのは皆さんのほうだろう。僕は、ただ(かなり程度の低い)アートだと言っているだけなのだが?
kensir0u 基本的人権を無視している点で憲法違反、つまり本件は社会で許容されない。ということで少なくとも日本ではアートとして認められないよ。
三島の「宴のあと」の芸術性(この場合文芸性)は、それでは否定されてしまうのだろうか? 裁判所に芸術的価値判断のゲタを預けていいのか、ということは大野さんにも質問したのだが。
もしこの写真集やこの動画が「仮に」完全に登場人物全ての合意のもとに発表された、法的にはクリアな(人権侵害のない)ものだったとしよう。
僕の判断は変わらない。この作品はアートとして作られた物だし、アートとして評価されてよいし、そしてそのレベルは相当低い。
みなさんは意見を変えるのだろうか?
内容が被写体女性に対して蔑視嘲笑的であることには変わりないので、同じくアートたり得ない、と考える人もいれば、いや、人権問題がなければアート作品として俎上に乗せてもいい(その上で貶す)という人もいるだろうな。
前者の立場は、およそあらゆる(例えば)性差別的性搾取的な表現に対して非アート認定をしなければならず、それは恐ろしくアート界隈を窮屈にするだろう。
後者の立場は、法や人権思想に芸術的価値判断のゲタを預けてしまっているのだ。
どちらの立場も、僕の取るところではない。「それはそれ、これはこれ」でなぜいけない。
(加筆)
一点、重要な論点について書き忘れがあった。ブコメで大野さんから指摘していただいたので、加筆する。
ohnosakiko 「アートとして扱うことが彼らへの法的・社会的な擁護に」はならないが、現実に存在する被害者を更に傷つけることにはなるからするべきではないと思っただけ
僕は、一般論として、事件を議論すること自体が被害者を傷つける可能性があるという指摘は、一理あるとは思う。
だがそれは、社会的・政治的・宗教的・心理学的・思想的・その他どのような基準から議論しても同じく傷つける可能性はあるのであって、特に芸術として扱うときにのみ被害者たちが傷つくわけではない。
例えば、(政治判断に関わる政治犯罪は別として)一般の犯罪事件の報道自体が無意味に被害者と加害者を傷つけるだけのものなのではないか、という立場はありうる。報道の自由と真っ向対立するのでそこまでの極論は少ないとしても、犯罪事件の実名報道はそもそも無意味なのではないか、という意見を持ってる人は割といる。ただ視聴者の低俗な興味を満たすだけの事件報道に公益性はない、という立場はありうるのだ。
いずれにしても、それは芸術として扱うときのみに生じる問題ではない。芸術というフレームで扱うときのみ特に深く傷つくと考える理由はない、と僕の場合は考える。