とりこぼした随想


2010年7月1日
まだこちらのアイデア段階の、思いついただけのものも含まれるが、メモしておきます。

筋肉少女帯が「元祖高木ブー伝説」を出したときに、ドリフターズの事務所側で、これダメなんじゃないかとか、抗議した方が、とかいう話になったらしいんだよね。高木ブー氏個人を具体的に取り上げてけなしてるわけだから。
これ自体は理解出来る流れで、むしろ自社に所属するタレントの保護ってのは、事務所が普通にやるべき仕事でもある。
でもそこでかっこいいのがブーさんだ。歌詞中で何も出来ないと非難されているご本人が「若い奴がバカやってんだからいいじゃないの、やらせてやれば」と言ったんだそうだ。
そういう経緯があって、あれは問題なく流通したんだとか。これはオーケンのエッセイを含め、結構あちこちで書かれてるから(wikipediaにもある)、多分本当なんだろうと思う。
俺はそんなブーさんを尊敬しているので、フィクション・創作作品・あるいは批評、等の芸術活動の形を取っている限り、自分へのどんな誹謗中傷があろうが、表現としての価値だけは認めて大目に見よう、と考えている。
批評の体裁整えろ、ってのは、それさえすれば好きに書いてくれていいよ、ってことなんだけどね。

たとえば誰かが、マジックテープの財布を持っている男全体の人権が侵害されたと言って、例の「彼氏の財布がマジックテープ式だった」という歌を訴えたらどうなるのか。あるいは、ヘイトスピーチ規制はそのような訴訟を可能にするのか。
この歌は、文化階級的、あるいは経済階級的に低いところにいる男を嘲笑しているのであって、差別的ではあるのだ。
これが仮に実在個人の、例えば俺の名前を挙げて、「高橋直樹の財布がマジックテープ式だった」という歌になっていたら、どうだろう? 先述の通り俺は表現作品の形を取っている限りは訴えないだろうし、あんだけ出来がいいなら褒めちゃうだろうが、しかしまあ、俺以外の人なら訴えることもあるだろう。そしてその訴訟自体はありなんじゃないか。
そのくらいには、個別具体的な人権侵害の問題と、抽象的な「全体」への差別表現とは違う。「テクニカルな問題に過ぎない」という言い回しひとつで無視出来るものではなく、本質的に違う。

この間キッチン用品とかそろえようと思って某100円ショップに出かけたら、店内でこの歌が掛かってて戦慄したw よりによって100円ショップでこの歌を掛けようと考えるそのセンスがパンク過ぎてかっこいい。バイト君がやらかしたんだろうけど、それを許可した店長もすごいw

たとえば「雨に唄えば」を歌いながらそのへんのおじいさんボコって逮捕されたとしても、「雨に唄えば」という歌が規制されたことにはならない。
また、そういう事件を防止するために「雨に唄えば」という歌自体を発禁にするのもおかしい。
結局の所、文言の「使われ方」を見なければならないのだ。

ヘイトスピーチと「表現」の境界
↑これ、何度も紹介したけど、意外なほどに読まれてないなあと感じる。