【國語教室卒業生は羊男の夢を見るか?】

※文中、京極夏彦のミステリ小説「魍魎の匣」から引用しその内容に言及しています。トリックを直接ネタバレするものではありませんが、重要な部分ではあり、未読の方は読まないほうがいいかもしれません。あらかじめお断りしておきます。

国語議論を戦わせるつもりはない。そんなつまらんことに興味はない。俺は仮名遣いなんかどうでもいいし、その「正しさ」なんぞに一円の価値も感じない。それを操る人のうちの一部、というか俺が主に知ってるのはそのうちの一人だが、その有り方についての話だ。

そもそも、世間に物申したければ、せめてまず今の等身大の自分を自分で引き受けられるようになってからにすべきではないか。
今2012年を生きている、大学は出たけれどそれ以上の何者にもなれなかった、特に文章に起こす価値もない平々凡々の日々を送る現代日本人の一人である自分、という現実をまず引き受けてみよう。さてどうしよう。
いや、自分の話をするならば、俺は自分の小ささを自覚はしていますよ? こちとら所詮は文化的埋立業者だ。今この瞬間に、左に空いている穴に右に積んである山からほいほいスコップで土を運ぶだけの簡単なお仕事だ。歴史には価値のない、化石にさえなれない偽物だ。俺は俺以上のものには多分なれないのだと、もう歳も歳なので分かっている。
OKOK、では俺が偽物だとして、貴方は、あるいは貴方の奉ずるそれはどうだろう?

病んでいるのは現代日本語ではない。貴方だ。

貴方は鳥肌実なのか、それともゆいつーしんの人なのか?
変身ヒーローごっこを楽しむ無邪気な子供なのか、現実と虚構の区別がつかなくなって高い所から飛び降りちゃった痛い子供なのか。
コスプレなのか、それとも。

現代人が現代的知識でアニメだのなんだのの現代的話題を現代語の構文・文法で考えて書いてるのだから、仮名遣いと漢字の字体だけ変えたって、それはただのオタク語りであり現代文だ。正しい日本語とやらに一ミリも近づいているわけもない。アニメや漫画を語る自分をそのペラッペラのテクスチャ一枚で何と隔てようとしている? 隔てられると思ってる? 貴方はただのアニオタだ。
本物を気取りたければ、「もののあはれ」についてでも古典文法で論じるがいいのだ。よいものはふるびない。
まあ、もうひとがんばりして擬古文の域に到達してさえ、それは「擬」、要するにフェイクだということなのだが。
色々文法的な? 国語的な? 反論をしてやりすごそうとでも思ってるだろう? そして実際やるだろう? そりゃ10年以上も旧かなマニアやってるんだもの、理論武装は完璧だろう。別にそこで勝とうとはしていない。好きなだけ国語的に勝ち誇ってくれていいので、その後でいいから、少し人間の内実の話をしてみよう

自覚的な偽物は大好きだ。むしろ自覚的な偽物こそが大好きだ。骨董品、大昔の立派な人が作って今ではメンテナンスも出来ないような壊れ物よりも、多少性能が劣ったって、今量産できて誰でも使えていくらでも替えのきく既製品をこそ俺は愛する。そういうものを使いこなすことこそすばらしいと考える。数打ちの刀は戦場では使えぬと前田慶次は言うけれど、数打ちの刀で戦う剣術のほうを俺は学びたい。そういう美意識の持ち主だ。
俺が嫌いなのは、自分を本物だと勘違いしている偽物だ。

京極夏彦の書いた「魍魎の匣」というミステリがあるのだが、そこに久保竣公と関口巽という二人の幻想小説家が登場する。この二人について書かれていることが面白い。
別に旧かな屋をdisるために書かれた小説ではないし、こういう話題で引き合いに出されるのはあんまり作品のためにはならないだろうし、ファンとしてはどうなのかとも思うが、まあ、まさしくこういう論点だなあと思うので引用させてもらいます。ごめんなさい。

(久保竣公、関口巽の作品を評して)
「貴方の書く幻想小説を幻想小説たらしめているただひとつの要因は、実にその壊れた文体にあると考えるからです。それがなければ貴方の小説は、素人が書いた只の私小説だ」

(中禅寺秋彦、久保竣公の作品を評して)
「彼の作品は殆ど日記だ」
「この小説は、只管(ひたすら)主体が誰なのか暈(ぼか)そうとばかりしている。旧仮名遣いにしたり、旧漢字を使ったり、いやそれだけじゃない。この小説には主格がない。だから気持ち悪いのだ」


ミステリとしての本筋とはあまり関係がないのだが、この二人のこの評され方は明らかに対になっていると俺は思うのだ。関口巽をこのように評する久保竣公がこう評されているそのブーメラン構造が面白い。いやむしろ、久保は自分がこうだからこそ関口の本質を見抜いたのではないか。
(つまりそういう批判ばかりやたら過敏にやってしまう俺には似たところがあるのかもしれない、と反省はする)。
このようにこの二人を描いた京極夏彦とはどういう作家であるのか。デビュー作からいきなりずば抜けて幻想的衒学的な作品を物し、後に直木賞を取ってしまう偉大な小説家の別の一面が、今となっては見えるんじゃないか。
百鬼夜行シリーズはあまりにも現代的だ。オーバーテクノロジー、数十年は先立って展開される社会思想、中禅寺秋彦(京極堂)をはじめとして、登場人物の発想は時代を超えすぎている。彼らが直面する問題も、舞台を戦後それほど経ってない時代にとっているわりには、あまりにも90年代〜00年代的過ぎる。なにしろセカイ系をテーマにした作品まであるのだ。それを時代考証が違っているというのならまあ違ってはいる。時代がかった言い回し、いかにも乱歩正史を匂わせる雰囲気、全部フェイクだ。それは恐らく、自覚されたフェイク、手法として選択されたアナクロニズムだ。
「擬」であることの自覚。京極夏彦といえば和服に指ぬきグローブのファッションだが、作中の中禅寺秋彦の陰陽師姿の手甲を意識しているんだろうなあとは思うがまあ、普通に言って、コスプレくさくも、オタクくさくもある格好だろう。それを京極夏彦が自覚していないとは俺には思えない。彼は分かった上で、それが自分にふさわしい装束だと考えてあれを選択しているのではないか。
百鬼夜行シリーズは戦後まもなくの話だが、鉄鼠の檻ではうる星やつらのパロディが出てくるそうだし、百鬼徒然袋シリーズのタイトルは、あれはハルヒのパロディではないだろうか。漫画的な、ラノベ的なもの、それこそ当時の作品で言えば「るろうに剣心」的なフェイク時代物としても読まれうるように、彼の作品は最初からデザインされているのではないか。

思い起こせば、新本格ミステリはそもそもフェイクだったのではないか。新本格は当時主流派だった社会派ミステリに対して、乱歩正史に還れと唱えた復古運動だったわけだが、その担い手は30代前半までの若者中心、ミステリ研出身就職戦線異状なし時代の20代の若者も多くいたわけだ。戦中戦後の激動の時代を生き抜きなお幻想的探偵小説を書き続けた大家の作品を、まるで違う現実を生きる若者達が追いかけた。作品を元に生み出した作品、最初から「偽物」だったのではないか。このありよう、何かに似てやしないか?
精神性という意味においてはむしろよほど松本清張のほうが時代が近い分乱歩たちに近いだろう。新本格ミステリは、最初からフェイクであり、人間も社会も描かない、およそ現実の重みというものに紐付けられてはいないゲーム小説だった。それを先行世代から散々批判されもした。
だけど彼らは、その年寄りどもの批判にただ頭をたれてこれからは心を入れ替えて人間や社会を描きます、みたいなみっともない真似はしてなかったぞ。だからどうしたと突っ張る反逆精神が、少なくとも初期にはあった。そしてそういうところをも、あるいはそういうところをこそ、当時の若者(の少なくとも一部)は受け入れたのではないか。
実際のところ、偽物こそがむしろ新本格の保守本流なのではないか。当時ファンには評価に困る怪作と見られていた(ように記憶する)塗仏の宴はよりラノベ的な方向に行った清涼院・西尾ラインと同じ流れだと今では再評価可能なんじゃないか。前に化物語と百鬼夜行シリーズについて書いたことがあるのだが(http://togetter.com/li/7685)京極夏彦と西尾維新は、普通に思われているよりはずっと近いところにいる、比較しがいのある作家なのではないかと俺は思う。
京極夏彦の作品において、旧かな旧漢字、古めかしい文体等は、雰囲気作りにおいて大きな効果をあげている。思想的に問い詰められればあるいは表面的、テクスチャ、浅いのかもしれないが、効果があるのならそれでいいのだ。京極夏彦はわかっててやってる。

旧かなを趣味として楽しむ分には、ちょっと昔のオタクがそういうのやってたなあと懐かしい気持ちもあるのだが、国語運動として何か有意義なものでありうると本気で言ってるのであれば呆れる。
2012年の薄っぺらな日本語文化圏の薄っぺらな大衆の一人である貴方の現実がそれほど薄っぺらだとして、貴方のものではない過去の言葉に思いを仮託してなんになる。薄っぺらな貴方の今を薄っぺらな貴方が今愛さなくて誰が愛せるんだよ。
福田恒存の目に、あるいは同時代の文学者たちの目に、敗戦後の日本の変化がどう映ったか。純文学に関わるもののアイデンティティに敗戦と占領とアメリカナイズがどれだけの衝撃を与えたか。それはまあ、とんでもなく大きな傷だったのだろう。しかしそれは、当事者の問題だ。
もう戦後半世紀以上過ぎているのだ。今を生きる俺達はそもそも明治憲法も旧仮名遣いも自分のものとしては体験していない世代なのだ。
それは明治維新や徳川幕府成立や大化の改新と同じ、ただの歴史上のある時点での出来事に過ぎない。まだ生きてる人もいるのでちょっと早いかもだが、そろそろそう言ってもいい頃合ではないだろうか?

いつまで引きずっているのだ。いや引きずってすらいない。もともと君の荷ではないのだから。それはごっこ遊びだ。何か苦渋に満ちた思想的テーマでも偉大な先人から受け継いだつもりかね?
俺が知ってからでさえ10年以上は同じところで足踏みしてるよね? いい加減、飽きません?
貴方は福田恒存ではない。このつまらない2012年をだらだらアニメ語りをして暮らす正真のフツーの現代人の一人に過ぎないのだ。まずそれを受け入れようよ。
どんなにつまらなかろうが僕らは自分の時代の自分の人生しか歩めないのだ。たった一度しかないポンコツ人生の最初の一歩は、そこから始まるんじゃないかなあとか思う。
で、他の人、旧かな自体は別に悪い趣味じゃないんだけど、若気の至りは若いうちしか若気の至りにならないからね?

(余談1)
本題と関係ないので論じないが、元々はそういう反逆に始まった新本格の流れの中にも、もう一周回って「文学」「思想」をやろうとする笠井潔等の流れもある。こちらはこちらでやっぱり面白い。ギャルゲー・ゲーム小説の流れでもう一周回ってゲーム的リアリズムとか言い出した東浩紀と、ジャンルは違えど似た仕事をしているので、この二人が対談とかするのは分からなくもない。
それに、当時新本格の若手だった人たちがその後書いてる作品は、人間や社会を描こうと取り組んだような作品も多かったりはする。でもそれは、批判に負けたとか変節だとか言うよりも、単に作家が歳を取ったんじゃないか。だってほら、もう五十代六十代だからね、さすがにいつまでも若書きは出来ない。長く生きれば、人生経験もいいか悪いかはともかく蓄積するし、それが作品ににじみ出たりもするんでしょう。

(余談2)
ちなみに、京極夏彦はごく普通の現代物も書ける。正直どすこいシリーズはあんまり……だが、「死ねばいいのに」はよかった。掛け合いにどこか落語めいたセンスを感じるのが、彼の深いところでの伝統に根ざしてるところかもしれず、俺はそちらにも強く惹かれる。